いじめをわかりにくくしている原因の一つに、被害者がいじめの恐怖に洗脳され、
加害者の『隠そう』とする意図に協力してしまっている現状についてです。
山脇先生は、具体例を出しておっしゃいました。
授業中、コンパスの針で刺し続けられている生徒がいました。
その生徒は「やめて」と言えなかったのか?
言えば、もっと苦痛を伴ういじめを受けることがわかっていたので、
生徒は「痛いっ」と叫びそうになるのをじっとこらえていました。
ある時、加害者は勢いあまって、生徒のシャツに大きな穴を開けました。
そのシャツを見た生徒の母親が穴に気付き、いじめを疑いましたが、
生徒自身は「自分が失敗して…」と必死に否定します。
生徒には、加害者をかばう義理もなければ、その必要もありません。
私たち大人は、いじめを受けている事実を告げれば、と思ってしまいます。
けれど、生徒は「(穴が開いたことでいじめを疑われてることが)お母さんにバレちゃって…」と加害者に伝えます。
加害者は「じゃあ、これからは(穴が開きやすい服の時は)手加減してやるよ」と言います。
これに対し、生徒は「ありがとう」と礼を伝えます。
なぜなら、「いじめが発覚した時の加害者からの報復が怖い」からです。
ほんの少しでも、バレにくい工夫をしてくれれば、現状維持を保てるからです。
バレてしまえば、そのあとにはもっと恐ろしい苦痛が待っていると想像できるからです。
同じ理由で、学校を休むことさえ、生徒は自分自身では判断できません。
休めば、いじめ発覚を恐れる加害者たちから、もっとひどい報復を受けるからです。
毎日毎日、『汚い』と言われ続けた子は、
いずれ自分自身の中にもいじめられる正当な理由を見つけようとします。
理由もなくいじめられるということは有り得ないという大人の価値観に縛られて、理由なくいじめられる自分をかばう意味で、
「自分は本当に汚いから、いじめられても仕方がないのだ」
と、自分自身に思い込みます。
そうして、被害者自身が正常な思考能力を失っていき、
あたかも、加害者側が正しいかのようなクラスの風潮に流されていく…。
まさに、いじめの恐怖に『洗脳』されていくのです。
このことは、加害者・傍観者にも言えます。
加害者は、初めは『でっち上げ』で被害者に精神的ダメージを与えます。
「○○はエンコーしてます」
嘘であっても構わないのです。
時に、昨日までのいじめが終わったかと思わせるように、今までの加害者が、
「今までゴメン。反省してるし、私の気持ち伝えたいから、メアド教えて」
と、やってきます。
生徒は、今までの恐怖からようやく解放されるという喜びと安堵、
そして断るとまたあのいじめが始まるという恐怖から、加害者にメルアドを教えます。
加害者は、生徒のメルアドと生徒の本名を使って、援助交際サイトに登録します。
そのサイトのアドレスをクラス全員に送りつけ、
「○○は本当にエンコーしていた!」
などと、煽ります。
今まで、半信半疑だった傍観者も、そうした事実の前には言葉を失います。
生徒をいじめることに罪悪感を持っていた傍観者たちが、加害者の仲間入りをする瞬間です。
「○○は、エンコーするようなヤツだから、いじめられても仕方がない」
と……。
こうして、かつては傍観者であった子どもたちまでもを巻き込んで、いじめは肥大化します。
加害者たちは自ら罪悪感を持たなくて済むように、善悪をすり替えて、いじめを増長し、
被害者はじっと耐えることで、加害者をかばっているという共依存の関係が作られます。
いじめは、集団ヒステリーであり、だからこそ、いとも簡単に誰もがかかりやすく、善悪が逆転しやすく、
自分を守るためには傍観者でいることは決して許されない世界なのだと、
山脇先生はおっしゃいました。
例えるなら、~戦争~に巻き込まれた人々の心理状態に近いのだと…。
自分が生き抜くためには、人を傷つけることに同情心など持っていては、その集団に適応できないのです。
殺すか、殺されるか。
いじめにおける二者択一の価値観の中で、どの子どもたちも、孤独に闘っているのです。
こうした実例が数多く、
『教室の悪魔』には掲載されています。
大人の感覚では、これは犯罪だ!と思うほどの内容です。
私たちが子どものころから、確かにいじめはありました。
私自身、いじめ当事者をかばうことでいじめの当事者になったこともあったし、
私自身が原因でいじめを受けたこともあります。
でも、そこには必ず、「いい加減にしなさいよ!」と制止する同級生の存在、
「アンタが好きだから、一緒にいる」と言ってくれる友人の存在がありました。
なぜ、いじめはクラス全員vs生徒という構図になってしまったのでしょう。
なぜ、いじめ問題はここまで大きく変わってしまったのでしょうか?
次回は、いじめが変わってきた原因についてです。
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